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千葉市緑区あすみが丘2-16-7

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院長についてDentist

歯科医師への道のり

こんにちは、院長の葛山賢司です。
私という人間をもっとよく知っていただくために、まずは、私の生い立ちからお話しさせていただきます。

私は、昭和41年長野県松本市で生まれました。
松本城の城下町だった松本市は、
周りをぐるっと北アルプスの山々に囲まれ、
晴れた日には、実家から私の大好きな、その名の通りに美しい
美ヶ原の山がよく見えます。
そんな自然が豊かな松本で、小学校から高校まで育ちました。

小学校時代

野球と釣りに明け暮れる日々

小学校時代は、授業が終わると真っ先に教室を飛び出し、ドラえもんに出てくるような空き地で毎日、日が暮れるまで野球の練習をしていました。
(そのおかげで現在は、千葉市歯科医師会の野球チームでキャッチャーをやっています。マスク姿が似合うね、と言われますが、うまいねとは、言われません 笑)
リトルリーグにも誘われたのですが、その頃は、釣り吉三平の漫画に夢中で日曜日に釣りに行きたかったので、日曜日に練習のあるリトルリーグはお断りしました。こうして、放課後は野球、日曜日は釣りというのが私の小学校の生活でした。

日曜日に釣りに連れて行ってくれたのは父でした。
あの頃、父は小さなバイクに乗っていました。
日曜日になると、「賢司行くぞ。」と、決まって父は声をかけてくれました。ヘルメットをかぶせられて、父の後ろにまたがり、風を切って近くの池まで行ったことを今でも懐かしく覚えています。
毎週日曜日、父もよく一緒に釣りに行ってくれたと、父には感謝の気持ちでいっぱいです。

そんな小学校時代で私はもう一人、忘れられない人がいます。
それは、一年生の時のクラス担任だった男の先生です。大好きだったその先生の影響で、私は「小学校の先生になりたい。」と強く思うようになりました。
その後は、「将来の夢」を聞かれるたびに、「小学校の先生」と答えていたような気がします。その先生は、最後は松本市の教育長となり、定年を迎えられました。今でも年賀状のやり取りをさせていただいています。

中学時代

バレー部に入部し、
ルーム長(学級長)を経験する

中学になると、バレーボール部に入部しました。
バレーボールは初めての経験でしたが、部活終了後も暗闇の中、母とパスの練習をして1年目からセッターとしてレギュラーで活躍しました。
2年、3年では、ルーム長(学級長)としてクラスをまとめ、今でも田舎に帰ると、中学の同級生には「ルーム長」と呼ばれ、必ずお盆と正月の2回、中学卒後以来、毎年欠かさず同級会を行っています。大体15名前後集まります。それも私の帰省の予定に合わせて開いてくれるので、感謝感激です。

この様なわけで、私の人生の中で、中学校時代というのは特別な意味を持っています。
その後、高校、大学と続けることになるバレーボールとの出会い、そして又、卒業後、毎年2回欠かさず会っている生涯の友とも呼べる友人に出会えたのも中学校時代です。
部活で汗を流し、友人と他愛もない会話で盛り上がる、とても楽しく充実した時期でした。

中学2年までは、平日は、バレーボールに明けくれ、日曜日は、釣りをして毎日を過ごしていましたが、中学3年にもなるとさすがに勉強をしなくてはいけなくなりました。
その時の担任の先生が言うには、「平日は、学校から帰ったら5時間、土日は、8時間勉強しなさい、受験3か月前は12時間勉強しなさい、そうすれば、必ず志望校に受かります」これを聞いた素直な私は、「そうか、これで受かるならやってみるか」と毎日受験勉強に励みました。
そして、いよいよ高校受験、私の生まれ年の丙午(ひのえうま)は、出生人数が凄く少なく、したがって、受験生も少なくなるという恩恵を受け(笑)見事合格いたしました。
ちなみに、私は「松本県ヶ丘高校」(松本あがたがおか高校)卒業です。先輩には、「ALWAYS三丁目の夕日」の映画監督、山崎實や、俳優の上條恒彦がいます。

高校時代

部活に勤勉、そして両親の反対

高校に入学し、またしてもバレーボール部に入部した私は、部活と勉学に励みました。高校生ともなると避けて通れないのが進路の選択です。
しかし、私の場合は決まっています。「小学校の時の憧れだったあの先生のようになりたい。」という思いはその時まで変わらず続いていたので、担任や両親に聞かれた時には、即座に迷うことなく「小学校の先生」と答えました。

ところが、ここで大問題が持ち上がったのです。
それは、両親の反対でした。今まで、いつも色々と私に陰ながら全面的に協力してくれた両親の反対は、私にとってはショックでした。
実は、私の叔父は松本で開業している歯科医師でした。父は身近にいる叔父が、地域の人たちから信頼され、生き生きと仕事に取り組んでいる姿を見て、自分の息子もあの様になって欲しい、と思っていたようです。また、私も父に似て割と手先が器用だったので、そういった面から歯科医師に向いている、と思ったようです。
しかし、面喰ったのは私のほうでした。小学校の先生になるということは、小学校時代からの私の夢でした。その夢が叶わないかもしれない、そういう不安と苛立ちから、泣いて父に抗議したこともありました。家族で何度も話し合いの場を持ちました。叔父も相談にのってくれました。

結局、私は歯学部を受験することにしました。
叔父が歯科医師という仕事の素晴らしさを語ってくれ、それに心が動いたからです。
ギリギリの進路の変更でしたので、その後、歯学部受験を目指して猛勉強を始めました。田舎者の私は、東京など大都市の大学は眼中になく、松本の様な田舎の歯科大学を目指したのでした。
そして昭和60年4月、福島県郡山市にある、当時は東北歯科大学。現在は、奥羽大学歯学部に入学したのでした。

後でわかったのですが、父は、同僚に「息子さん、凄いですね、東北大学の歯学部に行ってるんですね」と言われ、父も勘違いし「いえいえ、大したことありませんよ」と答えていたそうです。
ちなみに東北歯科大学は、私立の歯科大学で東北大学は、国立大学で宮城県仙台市にあります。
間違われてこんなに嬉しいことはありません。

大学時代

毎日の授業と部活の両立

こうして私は、めでたく東北歯科大学(現在は奥羽大学)に入学しました。そうです、あのGReeeeNは後輩なのです。入学試験が成績優秀(!)だったため、入学式で新入生代表として選ばれました。入学後は、故郷の松本を離れて、福島県郡山で一人暮らしを始めました。一人暮らしは嬉しい半面、全て自分でやらなければならないという大変さがありました。

大学での授業は、朝9時から午後5時までカリキュラムが組まれています。一般大学とは違い、ゼミなどの選択などはなく、休講にならない限り月曜日から金曜日まで毎日授業がありました。「いつかは叔父のように開業したい」その思いから、夜遅くまで大学に残って実習に励みました。
ここでも、部活動はと言えば、やはりバレー部に入部しました。しかし、バレー部はなんと廃部寸前で先輩部員が、3名しかいませんでした。そこで、なんとかバレー部存続のために、私は新入生1人1人に声をかけ勧誘しました。
誘い文句は、こうです。「今なら先輩が少ないからレギュラーになれるよ」その結果、なんと1年生だけで6人集まり何とかバレー部は存続できました。しかし、中学、高校とは違い、毎日練習はできませんでしたが、それでも週3回の練習を行いました。

年間の試験は前期、後期と年に2回ありました。ところが、成績が思わしくなく、再試験となると1教科につき再試験料が1万円かかるのです。貧乏学生の私は、再試験を受けないように必死に勉強しました。また年間の授業料もとても高額で、これまた留年も許されず毎日の講義に出席し、必死でノートをとりました。6年生ともなると、目の前に迫った歯科医師国家試験に向けての猛勉強がまた始まりました。
その甲斐あってか、合格者の掲示板に自分の番号があった時は本当に嬉しかったです。
自分の歯科医師としての人生がこれから始まる、と思うと、目の前に色々な可能性が開けたような気がして、とてもわくわくした気持ちになりました。

その後

明海大学にて勤務

めでたく歯科医師国家試験に合格した私は、開業医で修行するのではなく、埼玉県入間市にある、明海大学歯学部歯科臨床研究所付属PDI埼玉歯科診療所に入所しました。
歯科の臨床研修が正式に始まったのは、ここ2~3年ですが、この施設は今から30年以上も前から独自のカリキュラムで2年間の研修を行う日本で唯一の大学附属の卒後臨床研修施設でした。
私と入所した同期は6名でしたが、私以外は明海大学出身です。友人も、知っている先輩もいないところでゼロからのスタートです。通常は殻にこもってしまったり、孤独になることが多いのですが、入所3日後には、大学で同級生だったかのように他の仲間と打ち解けていました。
外部の人間を温かく迎えてくれた同期の仲間に感謝です。今でも毎年必ず同期会を開き、交流を続けています。

さて毎日の研修ですが、朝8時30分から9時まで朝の勉強会、9時からお昼12時まで診療、午後1時から5時まで診療、5時30分から夜8時まで講義や実習のカリキュラムが組まれていました。しかも、休みは隔週土曜日休みです。
いや~…私は学生時代以上に勉強しました(笑)
大学を卒業して5年後に開業すると決めていたので、この2年間で基礎を固めようと考えていましたし、大学の講義や実習と違い歯科の臨床が面白くて面白くてたまらなかったのです。
朝は上司が来る前、7時過ぎに出勤し、医局のコーヒーサーバーでコーヒーを作り、上司にお出ししました。(お陰でコーヒーを入れさせたら当時は私の右に出る者はいませんでした 笑)夜は、夕方の講義や実習が終わってから夕食を食べた後、夜12時前まで歯科関係の本を読んだり自分で実習したりしました。
この生活を2年間続けました。この研修医時代に、今でも私を支えてくださる師である教授との出会いやインプラントとの出会いがあったのです。インプラントとの出会いは衝撃的でした。自分の歯と同じように噛める、こんな素晴らしい技術は、将来開業したら是非患者さんに紹介してあげたい、そう強く思いました。

開業へ

紆余曲折を経て、やっと
自分の望み通りの診療へ

一通りの技術に少し自信が持てるようになった頃、結婚をしたということもあり、将来の開業の地を探し始めました。
色々と見た中で、最終的には、故郷の松本と同じく、緑が多く、自然が豊かで、そこに暮らす人々もどことなく温かい感じのする千葉市緑区あすみが丘に決めました。

晴れて、1996年開業。建物の外壁は、「幸せの黄色いハンカチ」にちなんで、“幸せ”を呼ぶ黄色にしました。
開業して間もないころから、多くの患者さんを診ることができたという幸運に恵まれ、とても忙しい日々を送ることができました。
1日に40人近くの患者さんを一人で診るので、どうしても一人にかける時間は長くて30分、短い時には15分ぐらいで終わることもありました。とにかく来て下さる患者さんをこなさないと…、そんな思いから、診療希望の患者さんをアポイント帳に無理やり詰め込めんでいる、そんな感じでした。

ところがある時、ふと、嫌気がさしてきたのです。
自分は何のために、こんなに流れ作業的に患者さんを診ているんだろう?
一人一人の患者さんと、ろくに話す機会もないまま、
ただ機械的にお口の中だけを診ている。
一人一人の患者さんがどういう悩みを抱えているのかを
十分に聞く時間もないまま、ただ、歯を削り詰めるだけ、
そんなことをするために自分は歯科医師になったのだろうか?

「歯科医師という仕事が嫌になった・・・。」

そう、家族に漏らすようになったのも、
開業して4~5年が経とうとしている時でした。

その頃、私は、もう一つの問題に気付き始めました。
患者さんの中には、治療終了後、定期健診で半年後に来て下さる方もいたのですが、その方の多くは、又虫歯になっているのです。
無理もありません。治療が終わっても、十分に予防の知識もないまま、また、その間に、適切な予防法もとらないまま半年を過ごすのですから、虫歯ができてもおかしくはありません。そこから、また長い治療のスタートです。これを繰り返せば、患者さんが歯医者嫌いになるのも無理はない、そう思うようになりました。
これを変えるにはどうしたらいいか?一人悶々と悩む時期が続きました。

そんなある時、ある2つの出来事が私のこれまでの診療体制を大きく変えることになったのです。

1つは、より良い診療システムを探して
他の歯科医院を見学している中で出会った、
ある先生との出会いです。

その先生は、一人の患者さんに45分から1時間をかけていました。他の患者さんと診療時間をだぶらせることもありません。
その先生は、こうおっしゃっておられました。

「一人の患者さんとの時間を長くとると、その患者さんが抱えている悩みを色々聞くことができるんです。悩みが分かれば、どうすれば一番良いかを一緒に考えることができる。患者さんの悩みが解決できたときに見せてくれる笑顔は、最高ですよ。」

この言葉を聞いたときに、私は目の前の雲がぱっと晴れたように感じました。
「そうか、一人の患者さんの時間を思い切って長くとればいいんだ、1日に診られる患者さんの数は少なくなっても、一人の患者さんの悩みを、時間をかけて聞き、丁寧に治療を行うことができる、
これこそが自分がやりたかった診療なんだ。」

もう1つは、
PMTCという
クリーニング法との出会いです。

これは、スウェーデンで開発されたむし歯・歯周病の除菌をする歯のクリーニングで、むし歯・歯周病予防に優れた効果を発揮します。定期健診だけでなく、このクリーニングも取り込めば、予防効果は格段に上がる。しかも、このクリーニングは痛みが全くなく、むしろとても気持ちがいいのです。このクリーニングを受けた人は、歯科医院=痛い、というイメージがなくなる、そう思いました。

後は実行あるのみです。早速アポイントを調整し、一人の患者さんの診療時間を必ず30分単位で取るようにし、長い時には1時間から1時間30分とるようにしました。
1日当たり診られる患者さんの数は激減しましたが、気にしませんでした。
PMTCのクリーニングも取り入れました。PMTCだけでも十分効果があるものでしたが、更に予防効果を高めるために、「口内環境検査」という検査も取り入れ、虫歯の原因を突き止め、そこからベストの予防法を導き出すというシステムに変えました。こういったシステムに切り替えたのが2003年の頃です。
1日に診られる患者さんの数を減らしたので、収入は激減しました。また、当初は、予防という考え方が患者さんの間にも広まっていなかったので、PMTCを受ける方も月10人もいないという状況でした。そういった状況にもかかわらず、私の心は満たされていました。やっと自分の望んでいた診療体制にすることができた、そんな幸せな気持ちでいっぱいでした。

今では、スタッフの努力と私の診療方針を理解してくれた患者さんのお陰で、ここ数年PMTCを受ける方は毎月約150人前後いらっしゃいます。定期検診と合わせると約300人前後の方が毎月予防のために当院を訪れてくれています。特に、口内環境検査を受けて、PMTCを定期的に行っている方にはほとんどむし歯がありません。また、患者さんの中には、「今までの歯科医院は、待たされて10分治療という所が多かったが、ここは違うと聞いてやってきた。」そう話して下さる方も多く現れるようになりました。更には、「予防を始めて急に痛くなるということがなくなった。」「歯医者さんが怖い所ではなくなった。」「お口の中がいつも快適でいられる。」などの嬉しいお声をたくさん頂くようになりました。
思い切ってチャレンジしないと何も変わらない、今までの経験からそう思います。だから、これからもチャレンジし続けていきたいと思います。「もうむし歯、歯周病に悩まない」そんな神話をあすみが丘から創っていきたいと思います。